今川義元の国語テスト「海道一の弓取り」とよばれた強き文化人

今川義元のイラスト
今川義元(いまがわ よしもと) 1519年〜1560年
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A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです

今川義元は、長いあいだ「桶狭間で信長に負けた人」としてだけ語られてきました。公家のような格好をした、弱い大名——そんなイメージすらあります。けれども実際の義元は、当時の日本でも指折りの実力者でした。

お坊さんから大名になった人

義元は、駿河の国(今の静岡県)の大名・今川家に生まれました。ただし五男。跡をつぐ見こみはなく、四歳で寺に預けられ、僧侶として育てられます。

ここで義元は、太原雪斎という優れた僧と出会いました。雪斎は学問にも兵法にも通じた人で、義元にあらゆることを教えます。この師との出会いが、義元の一生を決めました。

ところが兄たちが次々に亡くなり、家をつぐ話が持ち上がります。義元は寺を出て、跡目争いを制し、十八歳で今川家の当主となりました。雪斎はそのまま義元の参謀として支え続けます。

義元は今川家を大きく育てました。駿河に加えて遠江、三河(今の静岡県と愛知県の東部)を治め、東の武田・北条とは同盟を結んで背後を固めます。当時の東海地方でこれに並ぶ勢力はありませんでした。

「海道一の弓取り」と呼ばれた実力

義元は「海道一の弓取り」と呼ばれました。東海道でいちばんの武将、という意味です。

戦の強さだけではありません。義元は「今川仮名目録」という法律を整え、領国を秩序ある形で治めました。商業を盛んにし、駿府(今の静岡市)の町は京都の文化を取り入れて栄えます。当時の駿府は「東の京都」とも呼ばれるほどでした。

そしてもう一つ、義元が日本の歴史に残した大きなものがあります。徳川家康です。

人質として今川家に預けられていた少年時代の家康は、義元のもとで育ちました。雪斎から学問を教わり、駿府の文化に触れ、義元の姪を妻に迎えています。のちに二百六十年の平和をつくった家康の土台は、この駿府での日々に築かれたのです。

桶狭間——たった一日で変わった運命

一五六〇年、義元は大軍を率いて西へ向かいました。二万五千ともいわれる兵です。

その目的は、京都へ上って天下に号令をかけるためだった——と長く語られてきました。ただし近年では、尾張の織田領を切り取るための出兵だったという見方も強くなっています。

どちらにせよ、織田信長の兵はわずか三千ほど。だれもが今川の勝ちを疑いませんでした。

五月十九日、義元の本隊は桶狭間の狭い谷あいで休息をとっていました。そこへ突然、激しい雷雨が襲います。雨音に紛れて近づいた信長の軍が、雨のやんだ瞬間に本陣へ突撃しました。

義元は自ら刀を抜いて戦ったと伝えられます。最後まで激しく抵抗したという記録も残っています。それでも力尽き、四十二歳で討たれました。

この一日で、東海一の大名家は崩れました。人質だった家康は独立し、信長は天下取りへ歩き出します。義元の死は、戦国時代の流れを大きく変えたのです。

今川義元の年表

1519年駿河の国(今の静岡県)に生まれる
1523年ごろ五男のため寺に預けられ、僧侶として育つ
1536年十八歳で今川家をつぐ
1549年ごろ竹千代(のちの徳川家康)を人質として預かる
1554年武田・北条と三国同盟を結ぶ
1560年桶狭間の戦いで討たれる。四十二歳

もっと知りたい 今川義元の豆知識

公家風の格好は弱さの証ではない

お歯黒やお公家風の装いは、朝廷とつながりの深い名門であることを示すものでした。格式の高さを表す、いわば正装だったのです。

家康の先生でもあった

義元の参謀だった太原雪斎は、人質時代の家康の教育係でもありました。家康の学問の土台は今川家で作られたのです。

駿府は「東の京都」

義元が治めた駿府には、戦乱を避けて京都の公家や文化人が移り住みました。和歌や蹴鞠が盛んな、当時の東国でもっとも文化的な町でした。

今川義元のテスト(小学1・2年生用)

印刷せずに、この画面のまま読んで答えることもできます。 答えはいちばん下にあります。

読みもの

「海かい道どう一いちの弓ゆみ取とり」。それは、東とう海かいでもっとも力ちからのあったぶしょう、今いま川がわ義よし元もとのよびなです。義よし元もとは駿する河がの国くに(今いまの静しず岡おか県けん)をおさめ、歌うたが大だいすきな人ひとでもありました。

後のちに天てん下か人びとになる徳とく川がわ家いえ康やすも、子こどものころは義よし元もとのもとであずけられ、たくさんのことを学まなびました。

義よし元もとには、天てん下かに力ちからをしめすという大おおきなゆめがありました。そこで一五六〇せんごひゃくろくじゅう年ねん、京みやこ(今いまの京きょう都と)をめざし、大たいぐんをひきいて出しゅっ発ぱつしました。その数かずはなんと二に万まん五ご千せん人にんともいわれています。

しかし、桶おけ狭は間ざまの戦たたかいで、かみなりと大おお雨あめのなか、織お田だ信のぶ長ながのふいうちをうけ、義よし元もとはたおれました。この戦たたかいは信のぶ長ながが天てん下かへのぼりつめるきっかけとなりました。

えらぶ問題

  1. 義よし元もとにかったのはだれでしょうか?

    • ①武たけ田だ信しん玄げん
    • ②徳とく川がわ家いえ康やす
    • ③織お田だ信のぶ長なが
  2. 桶おけ狭は間ざまの戦たたかいのとき、どんな天てん気きでしたか?

    • ①はれ
    • ②かみなりと大おお雨あめ
    • ③雪ゆき

書く問題

  1. 駿する河がの国くには今いまの何なにけんでしょうか?

  2. 義よし元もとが大たいぐんでめざしたのはどこでしょうか?

漢字の問題

かん字に直して書きましょう。

  • ⑴かたな
  • ⑵むら
  • ⑶あさ
答えを見る

えらぶ問題 ⑴③⑵②

書く問題⑴しずおかけん ⑵みやこ

漢字⑴刀 ⑵村 ⑶朝

書く問題は、答えと言葉づかいがちがっても、 意味が合っていれば○にしてあげてください。

プリントの見本

👨‍👩‍👧 おうちの方へ

「義元の強かったところ、どこだと思う?」と聞いてみてください。負けた武将にも良いところを見つけられたら、それは深い読み方です。

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A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです

今川義元に会いに行く

  • 駿府城公園静岡市葵区

    義元が治めた駿府の中心です。都から公家を招き、京都に劣らない文化の街をつくりました。のちに家康が晩年を過ごした場所でもあります。

  • 桶狭間古戦場公園名古屋市緑区

    義元が最期を迎えた地とされる場所です。信長と義元の像が向かい合って立っています。

※ 開館日・時間・料金は変わることがあります。おでかけの前に、 各施設の公式ページでご確認ください。