信長と弥助の国語テスト遠い国から来た侍

A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです
1581年の春、京都に一人の男があらわれました。アフリカから宣教師に連れられてきた、肌の色の黒い大男です。その男は、織田信長に仕えることになりました。名を弥助といいます。戦国時代の日本に、海のむこうから来た男がいた——これは作り話ではなく、同じ時代の記録に残っている話です。
信長は、肌の色を信じなかった
1581年(天正9年)の春、イエズス会の宣教師が、一人の男を京都へ連れてきました。肌の色が黒く、当時の日本人が見たことのない姿でした。ひと目見ようと人が集まり、けが人が出るほどの騒ぎになったと伝えられています。
うわさを聞いた信長は、その男を呼び寄せました。そして、肌の色を信じませんでした。墨を塗っているのだろうと疑い、体を洗わせたのです。それでも色は変わりませんでした。このやりとりは、同じ年に宣教師ロレンソ・メシヤが書いた手紙に残っています。
信長はこの男を気に入り、そばに置くことにしました。「弥助」という名をあたえ、扶持(給料にあたるもの)をあたえたことが記録に残っています。
信長のそばにいたことは、たしかな記録がある
弥助が実在したことは、はっきりしています。徳川方の武将・松平家忠が書いた日記『家忠日記』の1582年4月の記事に、信長に付き従う弥助の姿が書かれているからです。味方でも身内でもない人が、別の目的で書いた日記に出てくる——これは、作り話では起こらないことです。
ただし、弥助がどういう身分だったのかは、実はよく分かっていません。扶持をもらい、信長のそばにいたことは記録にあります。けれども「侍だった」とはっきり書いた記録は、今のところ見つかっていません。刀や家をあたえられたという話も、たくさんある『信長公記』の写本のうち1本にしか出てきません。
テストの本文では「侍になる」と書いていますが、これは広く知られている呼び方にそろえたものです。本当のところは「身分は分かっていないが、信長がそばに置いていたことは確か」——ここまでが、記録から言えることです。
本能寺の変のあと、記録が途切れる
1582年6月2日、明智光秀が本能寺をおそい、信長は亡くなりました。本能寺の変です。このとき弥助も本能寺にいたとされ、そのあと信長の子・信忠がいた二条の御所へ走って戦ったと伝えられています。
そして、そこで記録が途切れます。弥助がどこへ行ったのか、その後どうなったのか、はっきり書き残したものは見つかっていません。南蛮寺に預けられたという話もありますが、これは後の時代に書かれたもので、確かなことは分かっていません。
分かっているのは、信長が最後の1年あまり、遠い国から来たこの男をそばに置いていたという事実だけです。
信長と弥助の年表
| 1581年2月 | 宣教師に連れられた黒人の男が、京都で信長に会う(『信長公記』) |
|---|---|
| 1581年10月 | 宣教師ロレンソ・メシヤの手紙に、信長が肌を疑って洗わせた話が書かれる |
| 1581年 | 信長が「弥助」と名づけ、扶持をあたえてそばに置く |
| 1582年4月 | 松平家忠の日記に、信長に付き従う弥助が記される |
| 1582年6月2日 | 本能寺の変。このあと、弥助の確かな記録は見つかっていない |
もっと知りたい 信長と弥助の豆知識
名前を付けたのは信長
「弥助」という名は日本に来てから付けられたものです。記録によって「彌助」「彌介」と書き方が変わります。もとの名前は分かっていません。
少し日本語を話した
宣教師の手紙には、この男が少し日本語を話したと書かれています。信長と直接やりとりができたということです。
出身地は、実は分かっていない
「モザンビーク出身」と書かれることがありますが、これを裏づける記録はありません。アフリカのどこから来たのかは分かっていないのが本当のところです。
信長と弥助のテスト(小学5・6年生用)
印刷せずに、この画面のまま読んで答えることもできます。 答えはいちばん下にあります。
読みもの
一五八一年の春、ある宣教師が、アフリカから一人の男を京都に連れてきました。男の肌の色は黒く、背は六尺あまり、今でいう百八十センチをこえる大男で、誰も見たことのない人の姿でした。男をひと目見ようと町には人が集まり、おしあいへしあいになって、けが人が出るほどのさわぎになりました。そのうわさは、織田信長の耳にも入り、信長はすぐにその男を城へ呼び寄せました。
男と出会った信長は、初め、男の肌の色を信じませんでした。なぜなら、男が肌に墨をぬっているのだろうと思ったからです。そこで信長は家来に男の体を洗わせました。けれども、いくら洗っても肌の色は変わりませんでした。信長はようやく、これが生まれたままの肌の色なのだと理解したのです。
信長はこの男に魅力を感じ、家来にしました。弥助という名をあたえ、刀を持たせ、家もあたえました。弥助は信長のそばに仕え、出かけるときには刀を持って歩いたと伝えられています。外国から来た者が、日本で侍になる。当時の日本にはない出来事でした。まして、海の向こうから来た者に刀を預けるなど、誰も考えないことでした。信長は、生まれた国でも、肌の色でもなく、目の前の男そのものを見て決めたのです。
一五八二年六月二日の夜明け前、明智光秀が兵を率いて信長を襲い、信長は火の中で命を落としました。本能寺の変です。信長が襲われた時、弥助も本能寺にいました。命からがら逃げた弥助は、信長の子・信忠のいる二条の御所(天皇の子が住む屋敷。本能寺から北東へ八百メートルほどの距離)へ走り、明智軍と戦いました。しかし、戦いの中で力つき、明智軍に捕らえられました。光秀は捕らえた弥助を「異国の者だ」と言って、南蛮寺という寺へ送りました。そのあと、弥助がどこへ行ったのか、書き残したものは一つも見つかっていません。ただ一つ、たしかなことがあります。信長が最後までそばに置いていたのは、遠い国から来た、弥助でした。
えらぶ問題
信長の人の選び方について考えてみましょう。次のうち、文章に合うものはどれですか?選んで○をつけましょう。
- ①身分の高い家に生まれた者だけを、家来にした
- ②生まれた国や見た目ではなく、その人そのものを見た
- ③力の強い者よりも、字の読める者を選んだ
書く問題
あとの10個から言葉を選んで( )に入れ、文章全体をまとめましょう。 【家来 なかった 南蛮寺 声 肌 あった 異国 町 城 客】 一五八一年、ある宣教師がアフリカから一人の男を京都に連れてきました。男の( ① )の色は黒く、町は大さわぎになりました。うわさを聞いた信長はその男を( ② )へ呼び寄せ、墨をぬっているのではないかと疑って体を洗わせました。それでも色は変わりません。信長はその男を( ③ )にして、弥助という名をあたえました。外国から来た者が侍になるのは、当時の日本に( ④ )ことでした。一五八二年、本能寺の変で信長がたおれたあと、弥助は明智軍に捕らえられましたが、光秀は「( ⑤ )の者だ」と言って( ⑥ )へ送りました。
漢字の問題
漢字に直して書きましょう。
- ⑴ぼうえき
- ⑵たしかめる
- ⑶ゆたか
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えらぶ問題 ②
書く問題⑴①肌 ②城 ③家来 ④なかった ⑤異国 ⑥南蛮寺
漢字⑴貿易 ⑵確かめる ⑶豊か
書く問題は、答えと言葉づかいがちがっても、 意味が合っていれば○にしてあげてください。
プリントの見本

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👨👩👧 おうちの方へ
この回は、読み終わったあとに話が広がりやすい題材です。「信長はどうして弥助を家来にしたんだと思う?」と聞いてみてください。正解はありません。お子さんがどこに注目したかが分かれば十分です。なお、弥助については分かっていないことも多く、本文では確かな記録に沿って書いています。
A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです